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安楽死が合法の国で起こっていること

賛成だろうと反対だろうと、まずは事実を知ること|ちくま新書|児玉 真美|webちくま
PR誌「ちくま」12月号より、著者の解説を転載します。賛成でも反対でも「まずは本書に書かれた様々を知っていたかどうか」そして「もし知らなかったことが多いなら、安楽死合法化に「賛成」または「反対」だと自分のスタンスを定める前に、まだまだ知るべきことが沢山あると気づいて」ほしいという著者の願い。安楽死について知っておくべき...

この本が本当に素晴らしい一冊だった。著者は児玉真美。京都大学の文学部卒で、カンザス大学教育学部修士卒とのこと。この人自身も障害を持つお子さんの親として、深い想いを抱えながら生き抜いてきた人。

安楽死「先進国」で起こっていること

恥ずかしながらこの本を読むまで、「安楽死」「医師幇助自殺」「積極的安楽死」「MAID (Medical Assistance in Dying)」の違いを考えることもなかった。実際に安楽死が法制化されたスイス、オランダ、ベルギーやカナダなどの豊富な例をあげながら、何が起こって、何が問題なのかを詳細に論じている。

すべり坂現象

すべり坂現象とは、生命倫理学で用いられる用語で、「一度ある方向に足を踏み出すと、どこまでも歯止めなく転がり落ちていく」たとえとして使われる。筆者が最も懸念しているのは、「安楽死」と「緩和ケア」の混同である。

安楽死が合法化された当初、その対象はもはや救命が叶わず、どうしても緩和不能な疼痛がある場合の最後の例外的救済という位置づけであったはずである。すなわち、「合法化」というよりは、一定の条件によって際どい行為を行う医師を免責し、「非犯罪化」したというのが正しい表現になる。

ところが一度安楽死を可能とすると、それが例外的な措置とはみなされなくなり、対象がどんどんと広がっていく。

本文中でも繰り返し述べられているが、患者の「意志」は非常に儚くゆるぎやすい。死にたい、と述べる患者の訴えを文字通り受け取ってはいけない。その患者が抱えているのは、死にたいくらい苦しい現実ということに目を背けてはならないと筆者は警鐘する。

安楽死という問題解決策が存在することによって、その手前で模索され、尽くされるべき医療や福祉や支援の努力の必要に関係者も社会も目を向けなくなれば、安楽死は耐え難い苦しみを抱えた人への最後の救済手段ではなく、苦しんでいる人を社会から排除する安直な—そして最も安価な—問題解決策となってしまう。

第一章 安楽死「先進国」の現状

無益な治療

今まで自分も医師として治療に関わるなかで、「治療が患者にとって無益である」ことを述べる場面は数多くあったが、果たして「この患者は無益か」という差別的な考えがなかったか、と問われると、反省をする必要があると衝撃を受けた。

純粋に医学的に無益な治療というものはもちろん存在するが(ウイルス感染に対する抗菌薬処方など)、医療者の発言の奥には「この患者は無益である」という含意があってはならない。ところが、ある功利主義者は次のように述べる。

血友病の新生児を殺すことが他者に悪影響を及ぼさない限り、その子を殺すことは正しい

第三章 「無益な治療」論

これに対して筆者は猛然とその薄っぺらい人間観に否と叫ぶ。

こうした議論に触れるたび、私はそこにある人間観に違和感を覚える。人をバラバラの個体として捉え、個体ごとの能力と機能を計量可能なものと見なして、その総和がそのままその個体の価値である、とでもいうような—。その総和に応じて幸不幸が宿命づけられている、バラバラの個体をひとつ任意に取り出してきて、科学技術でその能力をアップしてやれば、そのアップした分だけ、その個体が自動的により幸福になるはずだ、とでもいうような—。人の価値も幸福も何もかもが、足し算引き算の数式で合理的に割り出せるものであるかのように—。

それはあまりにも機械的で皮相的な人間観ではないか。人は、多くの人と多様で複雑な関係性を切り結び、その中から生じる「私にとってかけがいのないあなた」「あなたにとってかけがいのない私」という関係性を生きる、もっと社会的、関係的な存在なのではないだろうか。

第三章 「無益な治療」論

医療と生活

以前に岩田健太郎が「人生にとって健康や医療というのは、その人のほんの一部にすぎない。(中略)朝から晩まで、自分の健康や医療、ケアについて考えている人がいたら、その人は「ビョーキ」です」と述べていたが、筆者も以下のように述べる。

医療職と話をしていると「医療」の方が「生活」よりも圧倒的に大きい、医療が生活よりも常に優先されていると感じる。

第五章 重い障害のある人の親の体験から医療職との「溝」を考える

その成れの果てが、「この患者は可哀想だから」「この患者は生きるに値しないから」という医療者側の究極のおごりであり、「だから安楽死させてあげよう」という発想につながるのだろう。

また、安楽死はもはやできることがなくなった医療者に残された、最後の方策でもある。どうせ何もできることがない、という発想が、この患者を死なせてあげよう、という歪んだパターリズムにつながるからだ。

そうではない、と自身も障害を持つ子を抱える筆者は言う。

常になにがしらか、私たちにできることはある。・・・(治療が量的には無益だとしても)こうした悲劇的な時にも私たちは常に家族を支えるためにそばにいてあげることができる。子どもの痛みや不快にできる限りの対応をすると約束することができるし、お子さんにとって一番大切なことは愛してくれるご両親がいることなんですよ、と親に伝えることもできる。・・・(もちろん非現実的な希望を与えてはならないにせよ)私たちには、お子さんが可能な限り最善の生を送ることができるように力を尽くしますと約束することができる。

第五章 重い障害のある人の親の体験から医療職との「溝」を考える

家族と友人の苦しみに注意を払うことは、病む人へのケアの不可欠な一部である・・・彼らは、他者が置かれた状況のリアリティの中でその人のそばにいる。彼らがそこにいるとは、そこに愛があるということでもある。それでもやはり愛する者が苦しみのを目の当たりにする痛みと、あるいは蓄積し続ける疲労から、家族や友人が無意識であれ、死が訪れて患者の苦しみを—自分の苦しみも—終わらせてくれと願うことがある。安楽死が合法的な選択肢として提示されれば、家族は意識的であれ無意識であれ、解決策として患者をそちらに向かわせたり、患者の安楽死の要請を解放として歓迎したりするかもしれない。必要なのは、そうした立場にある者たちを非難することではなく、こうした難題が付きまとっているとわきまえておくことだ。

第六章 安楽死の議論における家族を考える

「高齢者は集団自殺・・・」「自己責任・・・」「自助共助公助・・・」などと恥ずかしげもなく唱える人間の声が大きくなっていく中で、本当に大切なことを訴えている一冊だと感じた。

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